中山村法華経寺門前助兵衛の慶応元年身延道中記
池田 真由美
はじめに 本稿で紹介する資料は、平成9(1997)年に市立市川歴史博物館へ寄贈された、旧中山村石井家文書中の一点である(A−10、以下同家文書は分類記号のみ表記す)。家屋取り壊しで寄贈された当時、資料群は、(1)家人が事前に運び出し、箱などで11に分類していた426点、(2)母屋一階小箪笥、母屋二階小箪笥、土蔵二階床・棚に散在と、分散して残されていた269点に分かれていた。なおこの他、母屋一階にあった古文書で下張を施した襖6枚がある。本資料は(1)に属し、便宜上Aとした箱に分類されていた。箱Aには、近世の検地帳や借金証文、近代の賞状や結納目録など、家経営上重視されていたと思われる史料148点が収められ、中でも本資料は「おもしろいことが書いてある」と伝えられ、家人が特に注目してきた資料であった。 資料の性格について一言で言えば、日蓮宗総本山の身延山久遠寺(現山梨県南巨摩郡身延町)参詣の路程を記録した「身延道中記」である。同様の資料は多く存在する(武州池上<本門寺>門前万屋惣七の弘化2<1845>年「身延道中日記」<大田区『大田区史資料編』寺杜1、1981年、622〜625頁>など)が、伊勢参詣記録などと比較し、これまで研究対象とされることは少なかった。そのため、本資料の検討は、当時の世相や交通事情のみならず、各地の日蓮宗信者の動向や宗門諸寺院の存立意義を探るうえで、有効な情報を提供することができると考える。 1.資料が残された背景 旧中山村(現市川市)は、明治10年代に編纂された「旧高旧領取調帳」によれば、幕府領と村内にある日蓮宗法華経寺領の相給村で、「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領取調帳」いずれも村高162石余とし、内50石余が法華経寺領であった。 法華経寺は、山号を正中山と称し、日蓮宗五大本山の一と位置付けられ、寛永年中(1624〜1644)には末寺132、天明年中(1781〜1789)には末寺200、塔頭28を有していた(寺院本末帳)。 享和3(1803)年「中山村明細帳」(市川市『市川市史』6上、218〜222頁)によれば、寺領の家数62軒、人別260名となっている。日光道中脇街道の佐倉道から分岐して正中山へといたる参道の両脇は、間口が狭い短冊状の家並みが続く門前町を形成していた。図1(C-3)は、作成者肩書から「大区・小区」制実施の明治5(1872)〜11年に作成されたと比定できるものだが、石井家は佐倉道にもほど近い、この門前町の入口付近に、参道に面して位置していたことがわかる。 同家は、図1で確認できるとおり明治前半期には周囲と比較して広面積を所有しており、また、同家文書中には、天保8(1837)〜慶応3(1867)年に同家「中山村助兵衛」へ宛てた借金証文が17点残されていることから、金融業を営んでいたことが想定できる。さらに、天保12(1841)年に創業を開始し(C-12)、江戸時代を通して醤油・味噌の製造・販売を行っている(A-9・B-3)。この動向は明治に入っても変わらず(C-5・L-27)、木下街道沿の深町(高石神村)の住人とともに商業活動を行い(L-28)、昭和にいたるまで薬・煙草・酒などを扱う経営の多角化を見た(L-29,J-8・11・15,P-1・4・7)が、現在当該地に同家は存在しない。 江戸時代の地域における同家の位置付けの詳細は不明だが、法華経寺との関係を示唆する正保3(1646)年の同村同寺領「名寄帳」(C-11)、寛文4(1664)年同「水帳」(C-9)、貞享5(1688)年同「知行年貢帳」(A-11)や、天保2(1831)年「御用留」(A-16)もあることから、近世の比較的早い時点で村内の寺領における村役人層であったと推察できる。近代に入っては、大区・小区制下の「副戸長」(図1の作成者名に「副戸長石井助兵衛」とある)、明治38(1905)〜大正7(1918)年に中山郵便局長(B-6-2・3・25)、大正4(1915)年に中山村村長(B-28)、大正12(1923)年に中山村村会議員を務めた(B-18)。また、廃仏毀釈運動に関連して、明治6(1873)年に法華経寺院代が作成した「寺院田畑反別什物取調帳」(E-12)や、翌年に作成された住職帰留届・住職引受先書上綴(E-15)が同家に残されていたことから、同家と同寺が密接な関係にあったことがわかる。さらに、明治16(1883)年に「妙法講布教結社」の副会長を任命され(N-1-19)、明治30(1897)年に同寺総代を務める(M-11-5)など、同家が同寺関係の重職を担う立場にあったと言える。 2.資料の概要 先行研究によれば(児玉幸多編『日本史小百科・宿場』〈東京堂出版、1999年〉138〜146頁、小野寺淳執筆部)、「道中記」の類は呼称が定まっておらず、絵図・版本・旅人自身の墨書の別や、形態も一紙・冊子や大小の別があり、内容も予備知識を得るためのものや実際に旅先で見聞した情報・感想・金銭出納の記録と、多岐にわたっている。このように「道中記」が多様な性格を持つ理由は、作成された個別の目的によっている。 江戸時代の庶民の旅は、(a)交通制度の安定化、(b)貨幣経済の浸透、(c)庶民行動の多様化と旅への指向性の増加、(d)代参講の発達、(e)絵図や旅行関連書籍刊行の活発化などの理由によって、文化・文政期(1804〜1830)以降、寺杜参詣を名目として盛んになった(桜井邦夫「旅人百人に聞く江戸時代の旅」<大田区立郷土博物館特別展図録『弥次さん喜多さん旅をする』1997年>)。参詣地には、伊勢杜・金比羅社・富士山・秋葉山・大山・善光寺、そして身延山などが一般化し、人生儀礼や病気平癒・商売繁盛といった個人的な目的、あるいは雨乞い・火伏せなどある団体の共通目的成就という名目的な理由で、多くの旅人が街道を往来し、その結果たくさんの記録が残された。 翻って本資料を見てみれば、その形態は、法量12cm×17p、地部・綴部が輪になった右2穴綴の携帯に適した横半帳、表紙・裏表紙を含めた14丁から成る、旅行者本人の墨書記録である。 記録に見える旅行者の足跡は、往路甲州道中を利用して、身延山参詣を果たすと即座に身延道を使って折り返し、復路東海道を利用して帰途についている。記載寺院は、現在不明なものを除き、すべて日蓮宗寺院で、道中参詣した状況を逐一記録する「品行方正さ」さえうかがえ、さらに、寺院への奉納料や宿泊料金・昼食代・渡船賃などの必要経費について記している。これに、前述した旧蔵家の村内での立場や、同家と法華経寺との関係といった背景を合わせると、本資料の作成目的が、中山村・法華経寺檀家など何らかの組織の身延代参の結果報告書と考えることができる。 また、本資料が作成された時期は、京都騒擾・京都火災・内外国難の理由で幕末の元治から慶応に改元した(吉川弘文館『国史大事典』1985年「けいおう」の項)、まさにその時をまたいでおり、近隣の鬼越村では、折からの異国船渡来や水戸浪士の動向、物価高騰といった内憂外患に対して、村をあげて同年に「世直大明神」を建立している(拙稿「市川幕末維新見聞録」<市川よみうり新聞社『市川よみうり』1999〜2000年>)ことから、世情平癒祈願の旅とも考えられるだろう。 しかし一方、右の状況下でも、27日間村を不在にすることを顧みず、八王子宿で芝居見物・伊豆修善寺で入湯・横浜で案内人を雇って見物・日本橋で買物と、個人的な趣味に興じる、庶民生活の普遍的な一面も垣間見ることができる。 3.記載内容の注目点 本資料の記録は、基本的に日並形式で、主な記載内容は、経由宿駅・村名、宿泊先名と宿泊代、参詣寺杜名である。その間に、通関や渡船利用、寄留地で目にしたトピックスなどを適宜織り混ぜている。以下、その中の注目点について述べる。 まず、金銭記録に注目した場合、宿泊代については、450文前後を平均として、320〜(切石沢村)550文(厚木村)と場所によって幅があり、金種も大方は銭単位だが、金単位で支払っている所もあった(小原宿・万沢宿)という、当時の世相がわかる。昼食の記載は少ないが、220文(両国)・100文(吉原宿)と「豪華」な時もあった。渡船賃は、富士川渡りのみ27文と記載がある。その他は、久遠寺関連で七面山・奥の院・山本坊と、日蓮縁の内船寺に、開帳料・勧化料・御籠代・見舞金世話料としてまとまった金額を支出している。しかし、一部の宿代・昼食代や渡船賃、石和宿硯池と横浜での案内料、日本橋の買物代などが未記載のため、完全な支出記録とは言い難い。 次に、交通史の視点から注目した場合、第一に、当時の交通手段の利用法をうかがうことができる。中山村から江戸へは、江戸川沿の本行徳村新河岸(現市川市)と思われる「河原」から舟で本所まで行き、帰りも日本橋から舟を利用したことが想定できる。本所・日本橋(小網町三丁目)はいずれも本行徳村新河岸問とを結ぶ通称「行徳船」の就航ルート上にあたる。また、横浜・神奈川宿間と品川宿・日本橋問でも一般に舟運が利用されていたことを示している。第二に、渡河地点について、第三に、通関地点について、確認できる点があげられる。特に後者では、「重キ御関所」(丸山よう雍成『日本近世交通史の研究』吉川弘文館、1989年、357〜363頁)の小仏関所を通らずに、「後の峠ヲ越」と明記している点が興味深い。この時は「軽キ御関所」で脇関所の上椚田関所を通過したことが考えられるが、通過しているはずの鶴瀬・万沢両関所と合わせて記録が無い(前掲の万屋惣七の「身延道中日記」では、鶴瀬関所の記載がある)。結局、通関の記述は「重キ御関所」の根府川のみで、当時の庶民の旅が、取締りの厳しい関所はほとんど通過せずに実施できたという実態を知ることができる。第四に、一般に庶民利用不可施設と理解されている本陣で、昼食をとっている点が指摘できる(石和宿)。これは、幕末期に経営困難に陥った本陣の苦肉の一策であろう(拙稿「本陣史料の基礎的研究」<『四日市市史研究』2.1997年>)。 さらに、日蓮宗関係の視点から見れば、当時の信者の参詣の旅が、宗門寺院を巡りながら、「南無妙法蓮華経」の題目を記す「首題」を受ける形をとっていたことがわかる。また、日蓮や「六老僧」、縁者の四条金吾・船守弥三郎・本間六郎、熱心な信者であった加藤清正や江川太郎左衛門ら縁の寺院として、黒野田宿上行寺・勝沼宿立正寺・山崎村本国寺・内船村内船寺・貞松村貞松寺・蒲原宿実相寺・沼津宿妙海寺・玉沢村諸堂・韮山村本立寺・加殿村妙国寺・金田村妙純寺・中依知村蓮生寺・上依知村妙伝寺・座間村円教寺・鎌倉龍口寺・同本興寺などを参詣することも一般的であったと考えられる。 このような宗門巡礼の旅であったにもかかわらず、合間には久能山東照宮・駿府浅問社・三島大社・鶴岡八幡宮の参詣も行っており、逆にこれら神杜が観光対象として広く認識されていたと想定できる。しかも、寺社をただ参詣するのではなく、「毒消符」(上沢寺)、「御酒」(久能山)、火伏の「棟札」(本立寺)と、効能名高い護符などを受けている様子は、現代にも通じるだろう。また、八王子宿新町舟森の大槻、江尻宿龍華寺の大蘇鉄とサボテンなど、自然文化財にも注目していた点を付け加えておきたい。 4.凡例 史料の翻刻は、以下の原則で行った。 (1)漢字は常用漢字で表記する。但し、固有名詞は原史料のままとした。 (2)西暦年代、未記載寺杜名、誤字・当字と思われる表記は、行間上に( )で注記した。 (3)原文行間中の注記は【 】で示し、該当箇所に挿入した。 (4)判読不明は□、削除は下に「 (5)変体仮名は平仮名に、複合文字の「 |
| (表紙) (裏表紙) 「元治二年 「下総国葛飾郡 順道記 中山村 乙丑三月廿九日」 助兵衛」 覚 一、三月廿九日立、 河原より 舟に乗り、本所相生町 壱丁目廻り、両国たいさう 昼食【弍百廿文】、夫より堀之内ニ而 蔦屋江泊り【四百三文】、諸堂不残 拝礼いたし、夫より 四月朔日、【上】高井戸江出、 夫より野崎江出、夫より (府) 常久村へ懸り、荷中江 行、夫より谷保村江懸り、 日野宿薬種屋久兵衛江 泊り、旅宿代四百三拾弐文、 (須カ) 【二日】夫より粟津村江懸り、 河原江出、夫より八王子 (家福稲荷) 新町江出、此処に宮 (欅) あり、大なるけやきあり、 夫より八王子宿本龍寺・同 大法寺首題取、不残参詣 いたし、本龍寺境内ニ而 芝居ヲ見、夫より宿江戻り 宿は角の大七旅宿代 四百五拾文、三日、夫より八王子ヲ (ママ) (三日) 立、北企村江懸り、同下椚田村へ 行、寺田村へ懸り、しハらく 此処二而休ミ、夫より小峠 ヲ上り、又下り、大戸【江出】昼食、 (ママ) 夫より案内村江出、夫より 段々行、小仏の後の 峠ヲ越シ、又谷庭ヲ下り、 爰ニ而しハらく休ミ、 夫より千木【良】村江懸り、夫より 小原宿小杉屋勇右衛門江泊り、 旅篭代金一朱ト五拾文、同四日、小原宿ヲ (与瀬) 立、夫よりよせ宿へ懸り、吉野宿へ (境カ) 行、夫より堺川、此処に 題目の石印あり、湊や二而 (訪) 休ミ、関野宿諏方宮所越、 上野原へ行、夫より鶴川江 行、夫より野田尻宿ニ而昼食、 夫より犬目ニ懸り、夫より 鳥沢江行、同猿橋宿 久保田江泊り、旅篭代 (殿上) 四百三拾弐文、【同五日】夫よりとのへ村へ 懸り、経王山信教院へ参詣 いたし、夫より大月へ行、 (狩) 【下】上花咲村々へ懸り、初かりへ (野) 懸り、黒の田江懸り、此処ニ 高祖御一宿の家あり、 長遠山上行寺高祖様、同 清正公様ヲ拝し、駒飼宿 池田屋幸蔵江泊り、旅篭 (立正寺) 代四百五拾文、【同六日】夫より休息山へ行 高祖大菩薩ヲ拝し、【并ニ】高座石 (栗) 不残開帳仕、夫よりくり原村へ (間カ) 懸り、真馬山大法寺へ参詣 いたし、夫より【田中村へ懸り】石和宿 遠妙寺参詣いたし、本陣ニ而 昼食、夫より硯池【此処江案内ヲ頼ミ】へ参詣仕、 夫より又石和宿戻り、夫より (府) 甲荷へ出、新龍寺・本【遠】光寺・ 佛国寺首題ヲ取、夫より (府) 甲荷ヲ立、在塔中六ケ寺参、 夫より甲荷ヲ立、【同七日】夫より 同国西条浄光山妙源寺ヲ 参詣いたし、夫より 南胡へ懸り、法立山長久寺ヲ拝し、 青柳木村昌福寺ヲ拝し、【夫より】 (妙法寺) 小室山江参詣いたし、 法論石妙石山懸腰寺 参詣いたし、夫より ( 戸 坂 ) 鰍澤江出ル、夫よりとそ【そ】かノ渡し 渡り、同岩崎の渡しヲ 渡り、夫より切石澤へ懸、 宿は木屋与四郎へ泊り、 旅篭代三百廿文、同八日 【同下山毒消符貰、法喜山上澤寺ヲ拝し、】 (本国寺) 夫より山崎村へ懸り、最蓮上人 (ヲカ) お拝し、夫より段々上り、 身延山の裏門江懸り、同 御山【惣】開帳いたし、高祖大菩薩 釈尊様ヲ拝し、同九日ハ 又々諸堂不残参詣いたし、 逗留いたし、休息仕候而、 (赴カ) 夫より十日七面山へ趣、西谷 ヲ上り、両妙法二神ヲ拝し、 其外旧跡不残参詣仕、 夫より赤澤行、爰ニて 吉野屋昼食、夫より 七面山へ上り、則開帳いたし、 金弐朱奉納仕、其外修復 造営之勧化納、御籠代 銭四百拾八文、翌十一日奥の院 江参詣いたし、夫より 御山ヲ下り、奥の院へ参り、 惣開帳仕、料金弐朱也、 夫より山本坊へ下り、金弐朱ハ 坊入、同金弐朱ハ隠居様へ見舞、 同金弐朱は世話料として 納候、同十二日夫より身延ヲ立、 大野山江参詣いたし、 (内船寺) 夫より【うつ】内船村へ懸り、四条金吾山へ 【参り、】高祖日蓮大菩薩・日頼上人・日眼上人拝 し、開帳料弐百文、夫より渡しヲ 越し、南部出、夫より萬澤宿へ 泊り、旅篭代金壱朱也、夫より 十四【三】日萬沢ヲ立、内房へ懸り、 昼食いたし、夫より峠ニ (興) 行、おき津へ懸り、此駅二而 清水屋へ泊り、旅篭代 (興) 四百四拾八文、十四日お起津ヲ立 【夫より】江尻宿妙蓮寺ヲ拝し、同所 妙泉寺二而首題取、夫より□□□ (華) 之法大野山龍源寺へ参り 首題ヲ取、此寺ニ大キなるそてつ あり、大枝六拾本、其外小枝数多く 凡廻り下の廻り壱丈五寸計り 長壱丈枝廻り三間四方あり、 其外ニも沢山そてつ有之候、 又大キなるさぼてんあり、是ハ 外ニ無類、依而御朱印付ニ御座候、 夫より久能山江行、下町二而昼食致し、 山江登り諸宮不残見物仕、 東照宮様の御酒ヲいたゝき (府) 夫より荷中へ行、大坂屋江泊り、 旅篭代四百五拾文、十五日 (府) (浅間) 朝荷中の仙現諸堂不残 (貞松) 拝礼いたし、みま津へ行、 貞松山蓮永寺ヲ参詣いたし、 夫より江尻へ出、昼食いたし、 (興) 沖津へ懸り、蒲原へ行、宿ハ かしハやへ泊り、旅篭代 (富士) 四百五拾文、夫より【十二日】藤川ヲ渡り 渡シ銭廿七文、夫より岩本山 實相寺へ参詣いたし、不残 開帳いたし、【高祖様江御膳ヲ上ル、飯【【米】】ヲ (.立正安国論) 磨キたる井あり、安国論認ム硯り清水の池あり、 又雷ヲ射シたる木あり】夫より吉原へ出、 山城屋二而昼食代百文、 (柏) 夫より【かしハ】原へ行、立園寺へ詣、 夫より原江出、夫より沼津へ 行、船守弥三郎之末孫ノ霊地 妙海寺江参詣いたし、宿は 米屋藤兵衛へ泊り、旅篭代 四百五拾文、十七日、沼津ヲ立、 三嶋へ懸り、三嶋大明神へ 参詣いたし、夫より 豆州玉沢へ行、諸堂不残 参詣いたし、夫より道々寺々 (本立寺) 参詣いたし、韮山へ行、首題取、 江川太郎左衛門様へ行、棟札ヲ 貰ひ、夫より修善寺へ行、入湯 いたし、十八日逗留、夫より (殿) 【十九日】修善寺ヲ立、加どの行、妙国寺 船手繰りの祖師様江参詣仕、 (冷) ひい川へ出、夫より伊東江行、 宿は大坂や江泊り、伊東 不残拝礼いたし、夫より (熱海ヘカ) 廿日伊東ヲ立、あたミい行、 相模や要右衛門江泊り、廿一日 (根府川) 祢婦かハ御関所へ懸り、夫より 小田原へ行、小清水屋へ泊り、 寺々不残参詣いたし、 首題ヲ取、此所ニ而逗留いたし、 (厚木) 廿三日あ津ぎへ行、宿は 萬年や平兵衛へ泊り、 旅篭代五百五拾文、廿四日厚木ヲ 立、下依知・金田村江行、明星山 妙純寺参詣いたし、中依知内 (間) 宝塔山蓮生寺本ま六郎中 屋鋪旧跡、夫より上依知内星梅山 明傳寺江参詣いたし、夫より 座問村休息山圓教寺高祖 御小休ミの旧跡参詣いたし、 夫より藤澤へ出、片瀬江行、 【廿五日】龍口寺祖師菩薩井ニ其外 諸堂不残拝し、鎌倉へ行、 (興) 本工寺日蓮大菩薩・日朝大聖人ヲ (鶴岡八幡宮) 拝し、夫より八幡宮へ詣、諸宮 不残拝礼仕、其外諸寺院江 参詣いたし、夫より横濱へ行、 案内ヲ頼、不残見物いたし、 夫より松ニ乗り、神奈川宿へ出、 川崎宿へ行、宿はふじやへ 泊り、旅篭代五百文、夫より 渡ヲ渡り品川江行、舟ニ 乗り、江戸永代橋へ揚り、夫より 日本橋へ行、買物調へ、夫より (マヽ) 中山迄、夜ル五ツ時頃ニ着候 〔付記〕本稿執筆にあたっては、大田区立郷土博物館桜井邦夫氏、茨城大学小野寺淳氏より、様々な御教示をいただいた。また本稿は、一九九七年度市川歴史博物館近世古文書講座の講義をもとに執筆したもので、受講者の方々からは貴重な御意見をいただいた。皆様に対し、深謝申し上げたい。 |
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