資料紹介  “笹屋"の屏風

                                              小泉 みち子

笹屋うどん
  市川市の南西、旧江戸川に沿って走る行徳旧街道はかつて江戸川の舟運が盛んであった頃には、大変な賑いをみせた街道である。交通・運輸の手段が鉄道へ、道路へと移りゆくのに伴って川は堤防にさえぎられてしまう存在になっているが、江戸川も道としての役割を確実に果してきた。その水路と陸路との接点が河岸であり、本行徳は江戸時代には交通の要衝であった。
  江戸幕府は寛永9年(1632)に本行徳から江戸川・新川・小名木川を通って日本橋小網町に至る渡船を許可し、本行徳村がその航路の独占権を得ている。行徳船と呼ばれた

 

船が往来し旅客の輸送が行われたが、江戸と下総とを結ぶこのルートは途中にきびしい関所もなく、歩くこともない船旅なのでかなり魅力あるものであった。成田山への多くの参詣客にも利用されていた。  
  現在では川岸にひっそりと立つ常夜燈だけが、かつてそこが河岸であったことを示すのみであるが、船場の様子は『江戸名所図会』に詳しく見ることができる。船から降りた旅人

   
 

はまっすぐ東に進み、つきあたりの「八はた舟はし街道」と記された道(現在の旧街道)を思い思いの目的地へ歩むことになる。ちょうどそのつきあたりに位置していたのが笹屋うどんである。船を利用する者が足を留める所としては恰好な場所であった。紀行文などにもしばしば登場している。
  十返舎一九の『南総紀行旅眼石』〔享和2年(1802)刊〕には、「行徳の里に到り笹屋といへるにやすらひはべる。此處は饂飩の名所にて、往来の人足を留め、饂飩、蕎麦切たうべんことを、せちに乞ひあへれど、打つも切るもあるじひとり、未だそのこしらへ、はてしもあらず見へはべれば、御亭主の手打ちの饂飩待ち兼ねていづれも首を長くのばせり」と記されている。
  笹屋の繁昌は、交通の要衝としての行徳の繁栄を背景にしていたといえよう。

 

2.笹屋の屏風

  笹屋には店の由来譚を記した六曲屏風が伝えられてきたが、昭和57年当主の飯塚正信氏より当館へ寄贈していただいている。
  由来譚は屏風上部に記された文字とその下に配された絵によって構成されている。物語は源頼朝が石橋山の合戦に敗れ安房国へ逃げ落ちる途中、下総国行徳に漂着したことに始まる。兵糧がつきて行徳に着いた頼朝らに、うどん屋仁兵衛は早速うどんや酒肴をこしらえて出す。これによって軍勢は力を得ることができ、このとき頼朝が笹りんどうの紋を与えたので仁兵衛は家名を“笹屋"と改めたと記されている。このあと話は、千葉介常胤、胤政父子や上総介広常の娘、末広姫をまじえて展開し、笹屋仁兵衛が活躍する場面も設定されている。
  屏風の製作年代は定かではないが、安永6年(1777)に刊行された黄表紙『月星千葉功(つきほしちばのいさをし撰者鈴木吉路、画工恋川春町と内容が著しく類似している点は注目すべきところである。
  以下、屏風に記されている物語を原文のまま紹介する。変体仮名は平仮名に改め、判読不能な部分は□、で示した。)

   

 

抑下總國千葉之妙見大菩薩ハ
往昔神亀五年
聖武皇帝之御宇天竺波羅門
僧正我朝に渡り給いし節
持来たまいて千葉氏累代
の守本尊にして其
れいけんいちしるくかつ
こふ□いをおしまつ
たるも世に知る所也

右兵衛佐
頼朝公は石橋
山之くわつセんに利
なくましましてとひ
まな鶴より御船え移主従
わつか七騎にて安房國ゑお
ちたもふ折しも船中に
兵ろうつきて君を初奉り軍兵
もいかんともすへきよふもなくして
皆々うへつかれ今ハせん方なく先家
有方ゑ御舟をよせるへしと水子
かまふして寄ける所下總國行徳と
言所につくに當所之住ニ
うとん屋仁兵衛と言けるもの早速に
罷出御いたわしき□有様かなしく

しつかふせうとんをこし
らへ御酒肴なんとをういういしくも
こしらへ出しけれは頼朝公を始
軍勢の人々もちからをゑて
足すすみけるされハ頼朝公
御かんなのめならすして御紋
所笹りんとうをそ下されける
依て家名を笹屋と改かた
しけなくも御めんあつて
御定紋をかんはんに付てそ
出しける
夫より頼朝公安房國へ
落付給いしかは國中之
大小名吾もと御味方に付
其中に千葉之助常胤同一子
胤政一番手にくわゝる二番手に
ハ千田判□を始其外吾も
はせあつまりいみしき御勢とそ
なり給ふ
 


然ル所に千葉之助常胤か家につたハる
所之天竺傳来の妙見大菩薩
有しを折しも君の御運をひらかセ
給わんと此尊像をさし上ける誠に妙見
大菩薩ハ軍神にのそんてハはくん
星成かゆへに君の御開運之御神
とおそれ奉り下總國大友と言所にくわん
請なし奉り諸軍勢皆かんたんをぬきんてゝ
君之御武運開かしめ給いとしらしける

其の中に一騎
常胤か一子胤政□文□二道に達するのミ
ならす詩哥連んはい之道にもくらからす
其風そく世にやさしくきれて万人に
すくれて春は花のもちに
散なん事をおしみ秋は
さひぬるむしの
音に哀を
もよふし
書画之余ハ
茶の湯生
はなをもて
遊ひてあく
まても世しおら
しきものゝふ
なり

 


或時頼朝胤政ニ御定
有けるハ其方常ニ香茶之
湯ニ達せしよしこれによつ
て鎌倉より御持参ありし
花筺之茶入雪之下の花入をそ
下されける其上近日胤政か所ゑ
渡御有て茶之手前を御覧有へ
きむねおふせわ□されける

□れ胤政ハ御前之首尾よろしく父常胤
もよろこひける胤政ハ妙見しんこう成か故ニ
参詣之折から上總助廣つねの息女
是も□□□妙見へ参詣之節おもわす
もたねまさを垣間見てわり言申とそ
なり
 


ニ又千田之判官是も末廣姫にこゝろ
を掛しかとも返事なく折ふし此□
を見てむねんにおもい家来ニ軍蔵と
言者に言付すきをうかゝい胤政かす
き屋へしのひ頼朝公てうたいなし
たる所の二品をうはいとらセける

はやすてに頼朝公いらせ給ふ
所ニ二品ふんしつセし故常胤大
きにいかり胤政を勘當をそした
りける末廣姫も不義之とか故
父ニかん気をうけ給いなけき給いけれ
ともセん方なく家来織平と
笹のをつれ両人とも古郷を出
下總國行徳笹屋仁兵衛方へ
来り頼ミ給ふ織平笹野
も仁兵衛を相たのみ
御主人をかくまい下さるへく其上
たからのセんきを相談しける

笹屋仁兵衛申しけるハとかく宝のセん
きハ人立多き所ならてハ知かたし我等
家財雑具ハ用立可申間是より毛見川
帰そは見せを出して多之人の
入込人々にたよりて二品の行衛をせん
きめされとてしハらく仁兵衛せわニ相成夫
より毛見川へ織平ハそは見せをそ
出し家名をさの屋と呼て宝之
せんきをそいたしける


 


然ルに千田之判官家来酒によい
此所へ立よりはん官むほんの事
をははなす夫の□ならす明夜鴻之臺
にて一味之者あ□□軍の□□□定有□


ー味之よ
□立きゝ其上軍蔵かくわい中ニ有れんはん帳
をうはい取てそ返りける

又胤政ハ末廣姫もろとも今ハ浮世に身を
やつし千葉之ゆふほくと改名して
日ころすける茶の湯いけ花の師とそ
なりて居たりける然ルに織平
ハ鴻之臺にてうはいし一巻
を持来り胤政ニ渡しけれハ
 



大きによろこひ是にて
父之勘気をゆるされ
んと思ひしかとも二品
之なけれハ色々と
くろうしはかり事
をめくらして花之
大會をもよふ
セしかは
とゝろき
軍蔵ハ
弟子
ゆへ
けふ


持来りしお見あら
わされこゝにて□□しく成

 


扨胤政ハニ品をとり返しれん
判帳もろともに北条四郎時政
之役所ゑ持参なしけれハ時政
大きにおとろき君ニ此旨申上奉り
千田之判官か相手ニ千葉父子をそ
つかわされける千葉父子ハ大切なる
事なれは日ころ信心なし奉る妙見へ
参詣して出立けり

に笹屋仁兵衛はせ来つて申けるハ
判官ハ明日君之陣屋えセめよする故
今宵ハ船橋之宿止宿なれハ色をもつ
てはかり申さんやと申けれハ皆々仁兵衛
か言葉もつともと同し末廣姫笹野
をとめ女となし船橋ニ至り酒をもつて
多之軍兵をたましけれハ皆々色酒
におかされ前後をわすれふしたりける
此ひまに織平手早くも軍兵とも之武
具馬具をかくしかは軍兵大きに手はつ
を間違大きにはい軍したりける
 


 
に常胤胤政織平大くのてき中に入いきおいも□にはたらきしかとも
千田之判官ハ大力無双之ものなれハ千葉父子はいほくしてすてに
あやうく見ゑたる所二ふしきやな□て明々として千葉之白はた
につきたる星より光明かくやくとして一人霊堂子あらわれ
白羽の矢をなけ給ヘハ誠妙見軍神之いさおし雨あられとふり
掛る矢にてきハ度をうしないこゝかしこニむれ居所へ笹屋仁兵衛
とんて出家に傳るこセうの数をおふきをもつて散しかハふる
矢ハ雨目にハこセう今ハカなく皆々にけんとセし所を織平
飛掛りつひに判官を生とりて常胤胤政織平ハ末廣姫諸共
に父子勘気ゆるされ君之御かんも甚しく猶も目出度笹屋仁兵衛
御両人の御セんとお見とゝけて君給わる笹りんとう家名も笹屋
定紋も笹のしけみと栄ける
 
   


  参考文献
 鶴岡 節雄 校注 『仮名垣魯文の成田道中記』(千秋社、昭和55年)
 


  コラム
             笹屋屏風にみる妙見縁起譚
                                              湯浅治久

  本屏風に描かれたモチーフは、千葉妙見宮(尊光院。現千葉神社)の縁起譚である。ここではこの縁起譚がなぜ笹屋の沿革に用いられるようになったのかについて、簡単ながら推測を試みたい。というのも、最近千葉市立郷土博物館は、妙見信仰に関する調査を精力的に進められ、その成果を@『妙見信仰調査報告書』(平成四年)・A『同(二) 』(平成五年)・B『同(三)』(平成六年)にまとめられた。その中で千葉妙見宮と妙見縁起譚に関わる諸文献が渉猟され、中世以来の諸本の伝来過程などについても、かなりの部分が明らかにされている。その主要な業績をあげれば以下のとおりである。
 ●丸井敬司氏「『千葉妙見大縁起絵巻の「詞書」について』」@に所収。以下同じ
 ●福田豊彦氏「千葉妙見宮の古伝承と『源平闘諍録』」(A
 ●丸井敬司氏「『千学集』をめぐる考察」A
 ●真野須美子氏「『源平闘諍録』に見られる千葉氏の妙見伝承」B
 ●丸井敬司氏「房総での源頼朝の動向に関する一考察−千葉の妙見古伝承と源頼朝の動向」B
  これらの研究を参照すると、この笹屋屏風の妙見縁起譚も、大枠では近世における妙見伝承の一つに数えられるものとしてよいものと思われる。そのため、笹屋屏風と妙見縁起譚の関連について若干ながらでも整理しておくことも、あながち意味のないことではなかろう。
笹屋屏風と『月星千葉功(つきほしちばのいさをし)』
  笹屋屏風の作成年代は明確ではないが、これとほぼ同様の物語が黄表紙『月星千葉功』となっていることが指摘されている(『成田道中記』解題)。『月星千葉功』の成立は安永6年(1777)であることから、屏風の年代もこれを遠く隔たらない時期とすることは許されるであろう。
   ところで他と異なるこの物語の特徴は、治承年(1180)に石橋山で惨敗した源頼朝が、安房国へ逃げのびる途中で下総国行徳に漂着し、笹屋の祖先となる“うどん屋仁兵衛"の出したうどんで力を付け、その功績により仁兵衛は頼朝から笹りんどうの家紋を与えられて家名を笹屋と改めたという点である。もちろん頼朝が行徳に立ち寄ったという事実はないが、あえて頼朝を行徳に引き寄せて笹屋の家名の由来にしていることがまず注目される点である。これは近世における行徳の賑わいを背景にこの物語が成立してきたことを示唆しており、留意すべき点であろう。その他の点は、相当の潤色が甚だしいものの、千葉氏と判官代千田親政の確執を基本とする点、千葉氏の危機を童子姿をした妙見尊神が矢を射って救う話という意味では、妙見伝承をひくものであると考えて良いものと思われる。
行徳の役割
  それでは行徳の笹屋が妙見伝承を自已の縁起に流用したのは、いかなる理由からであろうか。これを考えるヒントは先の『月星千葉功』にあるようだ。これには、四代目市川団十郎が千葉妙見宮の信心がたいへん篤く、そのお陰で大物となったことが記されている。重要なことは、市川団十郎が「成田屋」と呼ばれるように、一方で成田山の信仰を持っていることである。団十郎が成田山あるいは千葉妙見宮へと江戸から足を伸ばすとすれば、その中継地点としての行徳の役割が浮かび上がってくる。つまり行徳にある笹屋が妙見縁起譚を自らの沿革に援用したことは、団十郎を介して行徳と成田・千葉が交通上密接な関係にあったからと推測できるのではないだろうか。
  この場合、もちろん市川団十郎が何故千葉妙見宮の信者であったのかについては、妙見縁起の江戸方面への流布など、別に考えなければならない問題である。この点は、江戸庶民の娯楽本である黄表紙に、どうして妙見縁起が採用されているのかという点なども含め、それ自体が興味をそそられる問題である。また、さらに厳密に考えるなら笹屋屏風と『月星千葉功』の関係についても、内容に関する吟味が必要であり、その相互関係も解明されなくてはならない。小稿ではその用意もなく、すべては今後の課題としておきたい。