中世の“二子浦”覚書−伝説・地名・空間−
                                     湯 浅 治 久

 

  地域の歴史、とくに近世以前の歴史像をより豊かにするためには、様々な方法が試みられねばならない。小稿は地域に伝わる伝説や地名、それが構成するある空問といったものに着目し、中世市川の歴史をいくぶんなりとも明らかにする試みの、ささやかな覚書である。
 1 中世下総内湾と“二子浦”伝説
  1871(明治4)年、房総を旅した小川泰堂は成田街道を行徳から船橋に向かう途中で、つぎの様な伝説を書き留めている。「……中山法華経寺に参詣し、二子に至る。此の邊むかしは山根まで浪打ち寄せて二子の浦といひしとぞ。」「観海漫録」<『房総叢書巻八』>
  “二子(ふたご)”とは中山法華経寺の近くで街道に面した地であり、江戸期には360石余の村高の村であったが(角川日本地名辞典千葉県)、ここがかつて“浦”と称され海に面していたというのである。明治期のこの付近は、図によれば下総台地が低地と接する地点に位置しているが、一面に田地が広がる低地は、以前は“市川砂洲”と称される低湿地帯であり、さらにさかのぼれば海面であったと思われる。“二子浦”伝説はそうした時代を反映するものといえようが、ではいつこの地が陸続きとなり、田地が開かれるのか。地域の開発に関わるこの重要な問題に、何ら確実に答える術はないが、少なくとも行徳の塩業の展開に関わって、砂洲上の多くの村々が江戸期初頭に出現することから (『市川市史第二巻』内「行徳塩業の展開」)、それ以前の中世のことではないかと考えられる。この点、興味深いのは、“二子浦”が日蓮伝説と深く関わることである。周知の如く中山法華経寺は、日蓮が千葉氏被官富木常忍を頼って止宿した常忍の館と、同じ大檀那太田乗明の館が寺となった13世紀以来の名刹だが、日蓮がこの中山と鎌倉の往反に際し船出した地が“二子浦”だというのである(後述)。そして日蓮が船をおりた先の鎌倉の外港武蔵国久良岐郡六浦(横浜市金沢区)の日蓮宗寺院上行寺の縁起にも、日蓮は“二子浦”から出船したとある(同寺略縁起による)。この伝説の一致は、六浦と“二子浦”をむすぶ水路と交流の存在を推測せしめるものであろう。“二子”は『本土寺過去帳』に散見され、同帳の地名の多くが寺院の代称であるという指摘(同書解説)を踏まえれば、現在当地にある日蓮宗多聞寺が中世に存在した可能性も高い。“二子浦”は浦と浦、寺と寺をむすぶ中世水路の結節点であり、その事実が伝説となって今日に伝えられて来たのではないだろうか。すると砂洲の形成も13世紀以降、江戸期までと時代を狭めることができるかも知れないが、この点は可能性として指摘にとどめたい。
  ところで中世の東京湾交通については、小笠原長和氏による先駆的な研究(「中世の東京湾」<『中世房総の政治と文化』>)があり、六浦から武蔵側の内湾にそって利根川に入り、常陸・北総方面に至る水路や、六浦からの最端距離にある安房・上総方面との交通が明らかにされているが、史料の制約により、下総国側の内湾との水路・交流は不明な点が多い。しかし国府があり(市川)、守護千葉氏の本拠地もあるこの地域の水路も重要であることは言をまたない。その意味で“二子浦”伝説のもつ意味は大きい。

 

古代・中世の葛飾諸浦(含推定)

   名   称  現比定地  年  代     史         料      典      拠
@ 真間浦 市川市真間 8世紀 万葉集 『市川市史第5巻』
A 二子浦(推定) 船橋市二子 13世紀?    −      −
B 船橋 船橋市 14〜16世紀 檀那門跡相承資・本土寺過去帳 『千葉縣史料』中世編縣外文書
C 鷺沼(推定) 習志野市鷺沼 12世紀? 吾妻鏡 『国史大系』
D けみ川 千葉市検見川 16世紀 東路の津登 『市川市史第巻』
E くろとのはま 千葉市登戸 11世紀 更級日記 『市原市史』資料編
F 結城浦(推定) 千葉市寒川 12世紀? 平家物語(延慶本)他      −
G 濱野(はまの) 千葉市浜野 11・16世紀 更級日記・束路の津登 『市川市史』『市原市史』


 

  この表は、古代から中世にかけて存在したと考えられる下総内湾の港湾をあげたものである。何分にも史料的に不十分とのそしりは免がれないが、参考にはなろう。
  「東路の津登」で宗長は内湾一体を「かつしかの浦」と記しており、この海域が“葛飾浦、と郡名に因んで呼ばれていたことを知るが、この“葛飾浦”に、陸上の宿的な性格を兼ねた港湾が点在していたと思われる。こうした港湾からの水路を史料的に確認できるのはBの場合である。14世紀後半、船橋から浅草まで「平駄船」の運行が確認できる。またGの浜野からは、日蓮と常忍の“船中問答”伝説に類似して、品川から浜野の船中で、上総酒井氏の定隆と日蓮宗日什門流の日泰が出会ったという伝説の存在が知られる(「土気城双廃記」「土気古城再興伝来記」<『房総叢書』>)。船橋一浅草・浜野一品川と、遠浅の近海を利用した水運の存在が確かめられよう。してみると、品川・浅草は左右に開かれた中世水路の扇の要としての位置を占め、恐らくは“二子浦”と六浦の交流も、このルートを経るものだったのではないだろうか。
  近年網野善彦氏は、武蔵から常陸霞ケ浦に分布する“鎌倉”地名を手がかりに、「水の鎌倉道」ともいうべき中世水路の存在を推測されているが(「中世前期の水上交通について」<『茨城県史研究』43他)>、下総内湾と各地をむすぶこの様な伝説の分布をさらに精査し、空白に等しいこの地域の中世の交通を明らかにできる様に思われる。その際、広く鎌倉方面にまで分布する中山法華経寺の末寺の存在は、大きな鍵をにぎるものであろう。

 


   
     
 

2 “二子”を歩く 
  “二子”に日蓮がおり立ったとすれば、この地域にとってそれはどの様な刻印をきざんでいるものなのか。
  周知の如く、日蓮と富木常忍の関わりや中山法華経寺の歴史については、中尾尭氏『日蓮宗の成立と展開』を初め、『市川市史第二巻』『中山法華経寺誌』等の優れた研究がある。これらといかに切りむすび、“二子浦”伝説を地域に位置づけたらよいものか。以下はこうしたことを考えつつ、現地を歩いた際の記録である。まず、現地の地形を押えておきたい。図1によると、現市川市域の東葛台地に、大きく入り込む大柏谷があるがその東側に砂洲から北へ向かって小規模な谷が二つ、伸びているのが確認できよう。この内の口の広い奥行きの短かい谷にいただかれる形で、法華経寺・奥院がある。“二子”はこの二つの谷に狭まれる台地のへりにある村だが、注目したいのは、“ここに日蓮がおり立った。”“昔は船着場だった。”という“おり所(降り津 ”伝説がこの附近に分布する点である。●の地点がそれだが、さらに詳細な周辺図と地字図を得て(図2・図3)、説明を加えよう。
 A地点−日蓮宗多聞寺。日蓮がここにおり立ったという伝説のあることは聞いている(同寺御住職
       の談)。
 B地点−“二子”の小字「東戸」(ひがど)。ここは昔は船着場だったという。(法華経寺に面して)東の
      津の意か。
 C地点−同上「西ケ崎」。同じく船着場だったという。この周辺の民俗調査『寺内・古作の民俗』(船
      橋市教育育委員会・1983)も、日蓮が若宮の突端西ケ崎の下に上陸して中山法華経寺を
      創建したという伝説を採取している。
 D地点−ここには勝間田の池がかつてあったが、文化年問の『葛飾誌略』(「房総叢書巻六」)はこの
      池を「下り所の池」とし、「是は昔、日蓮聖人房州より佛法のため來り、此池より舟に乗りた
      りといふ。昔は此所より堀江村迄渡し有り。又、鎌倉迄出勤の武士の舟路なりといへり。」
      と伝説を記す。堀江(浦安)方面への船の往来も、先の下総内湾の水路との関連で注目さ
      れよう。
      (BCについては、船橋市郷土資料館学芸員伊藤徹氏の御教示による。)
  さて興味深いのは、A・B・Cをむすんで法華経寺・奥院に至るルートが考えられ、またDから奥院に至る古道があるとされており、それぞれが極めて特色ある空問を構成していることである。
  まずA→Cについてだが、このルートは広口の谷の右岸にそって徐々に台地に上がってゆく。途中の小字「海道」は、或いは“海からの道”を示すものか。やがて「東戸」をへ「西ケ崎」に着く。ここは最も高台にあり谷下を一望できるが、ここは墓地である。墓地には寺内(旧村)の旧家の男子が葬られるとも、日蓮宗の壇家の墓地とも伝えられ(前掲『寺内・古作の民俗』)、かつては板碑が4基あったという(峯川喜八郎氏「寺内の伝説」〈船橋郷土資料館だより21〉)。二子村の村境とみられる地がこの様な墓地であることは、日蓮伝説とも相まりこの地が境界領域であることを示すものと思われる。そしてさらに法華経寺へ向かう小字に「田子坂」とある。恐らく「田子坂」は「二子坂」のつまったものであり、“二子”から法華経寺への“坂”を示すものであろう。実際ここは急峻な坂であるが、“坂”も境界をあらわす地名であり注目される。以上伝承と地名により法華経寺へ至る一つの道がたどれるのではないか。これは浦から村に入り、村をぬけて寺へ至る道であったろう。
  つぎにDからの道だが、ここからは谷にそって細く台地のへりに道が伸びており、特色ある寺社の分布も多く鎌倉時代以来の道とされ、日蓮がこれを通り法華経寺に至ったとされている海老名雄二氏「吉作道と農家の変遷」<船橋市教育委員会『西船地区の民家』1978>)。この谷にそって本郷・寺内・古作の諸村があり、谷下に水田を開き谷のへりに集落を形成していた。法華経寺の谷にせよこの谷にせよ、大柏谷の如き大規模な谷に比べ、早くから開発されたであろうことは容易に推測され、“古作”とは小谷から転じてそうした谷の開発を暗示するものとも考えられる。そしてこの谷に妙見社があることが注目される(図3のC)。いうまでもなく妙見社は千葉氏・日蓮宗と関連が深く、この妙見社も千葉市にある妙見社(現千葉神社)の分祀ともいわれ、寺内村の旧家では子供が7才になると、本社の千葉神社に参詣する慣
習があるという(佐久問正象氏「寺内妙見杜の伝承と行事」<船橋郷土資料館だより17〉)。また図3Iの
                                     (ママ) 
葛羅の井戸」は、千葉氏の祖村岡五郎忠頼が生湯をつかった伝承をもつが、谷の縁辺の湧水としてこ
れは恐らく谷田灌漑に利用されたものと考えられ、総じてこの谷の開発と生産におとす中世武士千葉氏の影を窺がうことができ、図3Bの常楽寺には板碑も現存し、この谷のゾーンとしての中世的な特色を指摘できよう。以上、確実な史料は何らないものの、中世的空問の中を聖地法華経寺・奥院に至る道、それが“二子浦”とその周辺から伸びていることが、どうやら確認できるものと思われる。                                      

 
     
   


   
     
 

3.市川における目蓮宗の展開
  奥院から北東の方向に約二百メートル程行った畑の中に、「七経塚」なる7つの塚が建てられている。1905(明治38)年に建てられたこの塚は、つぎの様な伝説にまつわるものである。日蓮が若宮の法華堂で百日説法を開いていると、一日も欠かさず篤志の婦人が聴講に来ていた。日蓮はこれを怪しみ花瓶の水を注ぐと婦人は竜に姿を変じ、机上にあった八巻の法華経を奪って逃げ去った。村人達がこれを追うと七巻の経文は途中に落とされ八巻目だけが千足池の桜にかけられていた。この竜は千足池に住む竜神であり、千足池にはこの竜神の化身の妙正尼が開基となり妙正寺が建立されたという。
  ところで竜神が逃げた道を妙正寺道といい、古い面影を残す道として親しまれて来たが、注目したいのはこの道が、いままで述べてきた“二子浦”からさらに北へ伸びる道と理解できるのではないか、ということである。図1によれば、奥院から伸びる妙正寺道は、台地を貫き大柏谷の小支谷をへ、柏井村の台地に至るが、ここには妙正寺をはじめとして唱行寺・安楽寺といった日蓮宗寺院が分布している。大胆な推測を試みれば、妙正寺道と七経塚伝説とは、“二子浦”から伸びるルートと一体のものとして把えるべきものであり、それは市川における日蓮宗の伝播と発展を、反映しているものなのではないだろうか。
  大柏谷が入りこむ台地は、柏井・大野・曽谷の三つになるが、大野には本将寺・法蓮寺、曽谷には安国寺があり、周辺に目を転ずれば中沢(鎌ケ谷)万福寺、秋山(松戸)慶国寺と、当地域は濃密な目蓮宗寺院の分布が確認できる(図1)。これらの寺院の展開年代についてはさらに精査が必要なことはいうまでもないが、唱行寺・安楽寺等は中世からの展開が確認しえ、市川東部の台地には、中世法華経寺の展開と相まり、かなりの日蓮宗の伝播があったものと考えられる。また市川市西部の台地上は、かつて国府が置かれ国分寺が存在し、市川における古代以来の中心地だが、比較的日蓮宗の展開が希薄な感を受ける。この点も十分な調査を必要とするが、中世における宗教の展開に関連して注目されるのは、板碑の分布である。『市川市史第巻』の成果に筆者の調査を加え、さらに松戸市の調査報告(『板碑』<松戸市文化ホール>)の成果をふまえると、国府の存在する台地側には阿弥陀信仰の板碑が多く、東部の台地側には日蓮宗の題目板碑が多いことが判明する(拙稿「板碑の発見に期待」<市立市川博物館友の会会報“かいづか”27・28(合併号))。こうした東部の台地を中心とする日蓮宗の展開のなかに、“二子浦”の存在は位置づけられるものであろう。“二子浦”から遠く水路をへて六浦・鎌倉へ、逆に“二子浦”から下総国の内部へ、中世に日蓮がたどったとされるこの道は、そのまま日蓮宗の伝播の道としての役割りを果たしていたのではないだろうか。

  おわリに
  1715(正徳5)年、今島田唱行寺は柏井村名主・組頭中にあて、「宝伝作場道」「船橋当村柏井村)江之往還道入口」へ「唱行寺へ入口と申道杭」を立てたき旨を申し入れた。その理由として唱行寺は、「拙僧境内傍故、千ケ寺札打其外、江戸等参詣等道迷無之ため達而願候」と述べている『岡本家文書』<『市川市史第六巻上』所収))。図1を改めてみれば、「船橋当村江之往還道入口」とは、恐らく中山から印西木下へ伸びる木下街道が、唱行寺前から伸びる小経と交わる所であり、そこに唱行寺への入口を示す道標を立てたいというのである(ここには唱行寺の案内が現存する)。木下街道は江戸と利根川をむすぶ物資・人物の交流のため、賑わった街道だが、唱行寺もこの木下街道を行きかう人々との接触を図るためにこの様な申し入れをしたに違いない。自らの境内をかたわら“傍”とする意識は、木下街道の頻繁な往来に象徴される様な、江戸を中心とした交通網の整備がもたらしたものといえ、その意味ですぐれて近世的な産物であり、恐らく江戸以前、“二子浦”から伸びた道をつうじて東京湾各地、さらには六浦・鎌倉へとつながっていた時代には、なかったものに違いなかろう。下総国の草深い一地方寺院を取りかこむ世界でさえ、こうした鮮やかなコントラストをみせるのが、中世から近世という時代の転換であった。
  時代の転換といえば、現在の“二子浦・周辺は、田地の一枚すらない宅地化開発という“近代”を経てはいるが、小稿が蒐集しえた様な伝説等に、いまなお中世の姿を想像することは可能である。地域に伝わる情報をたんねんに集め、慎重さとともに若干の大胆さをもってそれに意味づけを与えてゆくことも、地域史の重要な課題であろう。地域史とは、“そこに資料がないから”といって等閑に付すべきものでありえないのである。その意味で、不十分な小稿に忌揮のない御批判・御教示をいただけて、少しでも前進させることができれば、幸いと考えている。

     (付記)小稿で使用した地図(図2)や伝説・地名につき、船橋市郷土資料館の佐藤武雄氏、な
         らびに伊藤徹氏に種々御教示いただくことがあった。末筆ながら記して感謝する次第
         である。