◆  市川自然博物館だより  ◆

6・7月号

「市川の大地」2

谷ができる

JR武蔵野線南西側の、高層住宅の立ち並ぶ南大野とその周辺の町。高層住宅群の右(東)側、真っ直ぐな道にほぼ沿って大相川が流れ両側には畑や水田、住宅が見える。

市立市川自然博物館  1996年12月1日発行

特集記事 街かど自然探訪 むかしの市川 観察ノート

 



特集記事



「市川の大地」2 谷ができる

 大雨の降った後に町を歩いていると、道路のいたる所に普段は無いゴミや落ち葉、そして土砂がみられます。これは雨水などが道路を流れた時に一緒に運んできて、残していったものです。土の地面を見ると、水の流れた跡が刻まれています。水は土を動かし、大地を変化させることができます。今回は水の働きによってできる、谷の成り立ちについて紹介してゆきます。

水の働き

 水は大地に対しておもに、3つの働きをします。削る働きの浸食、土砂などを別の場所に運ぶ運搬、運ばれてきた土砂で埋める堆積です。この3つの働きは、流れの速さや水の量などによって変わり、場所によっても、水の働きの組合せやその働きの強弱の程度が違います。
 川で見てみると、流れが急で速い上流では、川底の浸食が進み、削られた土砂はその場から運び去られてゆきます。流れがゆるやかな中流や下流では、流れの蛇行が起こり、両岸を削り、川底が広がり、広い河原の中を水が流れるようになります。河口周辺では、急に流れが弱まるので、土砂が堆積します。海底にも運ばれてきた土砂が堆積し、凸凹があっても、埋められて平坦になります。
 大地の様子を調べてみると、水の働きの跡を見つけることができます。逆に地下の様子を詳しく調べてみると、その場所が過去にどんな様子であったか知ることができます。実際に市川で、おこってきたことを調べてみましょう。
大柏谷の地下の様子&大柏谷の成り立ち(sz441.gif、約22KB)

水の働きからみた大柏谷の成り立ち

 大柏川は、鎌ヶ谷市や市川市北東部に源を発し、南西へ向かって流れ、真間川と合流して東京湾に流れ込みます。川の両側には平坦な土地が拡がっていて、台地の縁の崖につながっています。この大柏川と両側に拡がる低地が、大柏谷です。
 大柏谷の地下の様子はどうなっているでしょうか。次の図は、ボーリングで得られた資料を基に、描いたものです。太線は堆積物の様子が大きく変わる境界を表しています。台地から谷の地下に続く成田層はほぼ平行に積み重なっているので、おだやかな水中、つまり海中に砂が平坦に堆積してできたと考えられます。しかし、成田層の境界を表す太線が凹形になっていることから、成田層はできた後にえぐられて、谷が刻まれたことがわかります。成田層に刻まれた谷は、平坦な海底がゆっくりと陸化し、地表に川などの水の流れが生じた時に、下へ下へと陸地を削る浸食が働いてできたものです。浸食と同時に、削られた土砂は水の働きによって下流へ海へと運び去られてゆきます。活発な火山活動によって、火山灰が周辺の大地に降り積もった時も、軽い火山灰は水によってどんどん流されたために、谷底には残りませんでした。
 太線から上の部分を見ると、凹形に削られた成田層の上に、砂や泥が堆積しています。この層の中からは、現在の東京湾に生息しているのと同様の種類の貝の遺骸が見つかっています。成田層がえぐられて谷ができた時代の後に、海が拡がり谷が海面下に没する時代が訪れたのです。細長い谷は、細長い入江のような海になりました。この時海中では土砂が堆積し、凹地が埋められていったのです。
 岸辺では、波の働きで斜面が削られ、台地との境の崖が発達しました。水の動きも穏やかな海底には土砂が堆積してゆきます。崖から削りとられた多量の土砂や、川が上流から運んできた土砂などが堆積してゆき、谷は埋められ、しだいに浅くなっていきます。その浅くなった海に多量の貝が生息していたのです。
 さらにこの後、再び陸化して、大柏谷は現在見られるような地形になりました。

 



谷が刻まれた台地

市川の谷の様子(sz442.gif、約4KB)
 大柏谷以外の谷の様子はどうでしょうか。
 右図は谷の様子がよくわかるように、谷の部分を黒く塗りつぶした地形図です。細かく枝分かれした大きな2つの谷があって、市川の台地を大きく3つに分けていることがわかります。2つの谷の末端では、谷津と呼ばれる小さな谷や、谷津よりも小規模な谷が台地を細かく刻み込んでいます。これらの大小の谷の中には流れがあって、それは2つの大きな谷を流れる国分川と大柏川に続いています。
 都市化が進んだ現在でも谷に水が集まことは変わりません。でも過去の時代には自然につくられた流れの多くは、暗渠やU字溝などにその姿を変え、都市に隠されてしまいました。

 大柏谷でおこったことは、国分谷や市川周辺のその他の大小の谷でも、似たようにおこっています。水の働きによって、台地が削られ、谷が出来てきたわけです。

●参考文献

 *市川市史 第1巻第1章 地形の発達 (1971年 市川市発行)
   ・市内の図書館等で閲覧できます。


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街かど自然探訪



須和田公園イラスト(sz443.gif、約9KB)

須和田・須和田公園

 小高い丘になった台地上に須和田公園はあります。復元された縄文時代の住居があるこじんまりとした公園ですが、周囲や公園内には樹木が多く、静かなたたずまいを見せています。公園内には大きなケヤキが数多く生育していて、ほうきを逆さに立てたような枝ぶりが特徴です。樹木が多いせいか、シジュウカラやメジロ、コゲラ、ヒヨドリといった野鳥も数多く、静かにベンチに座っていると間近で野鳥たちの姿を見ることができます。


関ヶ島・遠のく川と海

 江戸川の水運や東京湾岸での製塩など、行徳という地域は、昔から江戸川・東京湾と密接な関係を持ってきました。特に、旧行徳街道沿いの町には、そういう歴史が刻み込まれていきました。
 関ケ島は、路地や銭湯といった懐かしい風景を残す、そんな町のひとつです。旧街道沿いの町らしい落ち着いた、たたずまいです。でも、訪れた時に川や海の気配が感じられなかったのは、行徳地域全体の都市化が進んだからなのでしょう。

 

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むかしの市川



ニオイタデ

カット「ニオイタデ」(sz444.gif、約24KB)
 昭和30年代、ニオイタデがじゅん菜池 (当時は水田) にあることを教えてもらい、その甘酸っぱい匂い、柔らかい白い毛、ピンクの可愛い花にひかれて、よく観察にいきました。
 昭和46年、じゅん菜池 (北側1/3 は放置田、南側2/3 はほとんどが水田) の植物調査をしてみると放置田では、東側の半分近いところに、西側は点々と6カ所に、ニオイタデが生えていました。しかし、南側の水田にはみることができませんでした。
 4年後、水田だった所も稲作をやめられ、放置田になるとニオイタデが3ヶ所広い範囲(各々100m3以上) に美しい花を咲かせていました。
 この地は現在、じゅん菜池公園として整備されニオイタデはありませんが、大町自然観察園に移植されて、今でも9月になると、その花をみることができます。

(博物館指導員 鎗田安之 記)

 

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わたしの観察ノート No.26



◎カッコウとホトトギス−−−−−−−
 5〜6月に、カッコウとホトトギスの 情報が各地から届きました。

◆大町自然観察園一帯より−−−−−−
以上 金子謙一(自然博物館)
※動物園で人工哺育を試みましたが残念な結果に終わりました。しかし、ノウサギが繁殖できる環境が、まだ市内に残っていることがわかりました。
 
須藤 治 (自然博物館)

◆南大野より−−−−−−−−−−−−
  
以上 高畑道由さん (南大野在住)

◆北方第2公園より−−−−−−−−−
◆北方遊水池付近より−−−−−−−−
 
以上 今泉新二さん (北方在住)

◆本北方より−−−−−−−−−−−−
  
籔 忠さん (本北方在住)

◆小塚山市民の森より−−−−−−−−
 
根本貴久さん

◆国府台より−−−−−−−−−−−−
安藤ゆきのさん (新田在住)

◆江戸川放水路より−−−−−−−−−
金子謙一
   ※オーストラリアのビクトリア州から来たものだそうです。

 

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