◆  市川自然博物館だより  ◆

8・9月号

「市川の大地」3

地盤沈下と埋没地形

市立市川自然博物館  1997年3月1日発行

特集記事 街かど自然探訪 むかしの市川 観察ノート

 



特集記事



「市川の大地」3 地盤沈下と埋没地形

 昭和35年頃から、市川市南部で地盤沈下が激しくなり、問題になりました。地表が広い範囲にわたって沈みましたが、現在はおさまっています。地盤沈下自体は、人間の営みが引き金となって起こるものですが、地表では見ることができない、地下の様子を知る手掛かりを私たちに教えてくれます。

市川市内の地盤沈下

地盤沈下の様子(sz451.gif、約5KB)  昭和30年頃、市川市とその周辺に大きな工場が建てられ工業用の井戸が掘られました。工場では、生活用とは比べられないほど多量の地下水が、盛んに汲み上げられました。地下水の多くは、沖積層と呼ばれる軟らかい地層に含まれています。地下水が過剰に絞り出されたために、沖積層は収縮し、その結果地表が沈むようになりました。これが地盤沈下です。
 図1は、市川市内で沈下の観測が始まった昭和38年から、沈下量が減少し始めた46年までの8年間に、市内の各所がどれくらい沈んだかを表した地図です。また、図2からは沈下量が大きかったのが昭和50年頃までであることがわかります(中には2m以上も沈んでしまった場所もあります)。昭和46年から工業用水道の供給が開始され、47年からは、地下水の汲み上げに対する規制が厳しくなったため、市内の沈下はしだいに止まりました。平成5〜7年には、一年に1・以上沈下する場所はついになくなりました。
 図2を見ると、次の2点に気づきます。第1は市の南部ほど沈下量が大きいこと、第2は近接した地点でも沈下量に大きな差のある場所があることです。
なぜこのような事が起こるのか、調べてみましょう。


年度別沈下量(sz452.gif、約2KB)












埋没地形(sz453.gif、約46KB)

沖積層を取り除くと…


 地盤沈下は、沖積層の収縮によって起こるので、沖積層が厚く堆積している場所ほど沈下量が大きくなる可能性があります。図3は、沖積層の底の深さを調べて描かれた、いわば沖積層を取り除いた時の市川の地形図です。地下に埋もれている地形なので、埋没地形と呼ばれています。地層はふつう下から順に堆積してゆくので、この図は沖積層に埋められる前の時代、今から約2万年前の氷河期の市川の地形を表しています。
 埋没地形は、市川谷、行徳谷などと名付けられた埋没谷と、平坦な埋没段丘面の2つに大きく分けることができます。埋没谷は段丘面を約30m、深い所では50m以上の深さで細く刻み込んでいます。2万年前の市川は海が無く、現在よりも深い谷が幾つもある、起伏に富んだ地形をしていたと考えられます。
 しかし氷河期が終わり温暖な時代が訪れると、海面が上昇し、市川南部は海底になり、そこに泥や砂が堆積しました。これが沖積層です。 3,000年前ごろから再び海が退いて市川市南部が平坦な陸地としてあらわれました。このような経過から、埋没谷の上にあたる場所ほど、沖積層は厚く、地盤沈下が起こりやすい場所になっています。











埋没地形の横断面図(sz454.gif、約3KB)


沈下量の大きい場所

 地盤沈下は、地下水の汲み上げ量が多い場所の周辺ほど、顕著におこります。観測地点の数が少ないために、図1と3の関連を、細かく知ることはできませんが、ここで地盤沈下がもっとも激しかった地域に注目してみます。
 図1を見ると、地下鉄東西線と江戸川の間の地域にいくつか観測地点があります。その中でウの地点、行徳駅と南行徳駅のほぼ中間に、沈下量の大きい場所があります。その場所が図3ではどこに当たるか見てみると、行徳谷が枝分かれした先の一方が同じ場所にあります。どうやらこの谷の存在が、被害を激しくしたようです。図1で東西線の南側の2地点も同じ谷の上にあります。東京湾岸の2つの観測地点も、市川谷と船橋谷が分かれる、大きな谷の上に乗っているのがわかるでしょうか? また、市の南部ほど埋没谷が大きく深いために、北部よりも被害が大きくなったことがわかります。


東京湾の埋没谷(sz455.gif、約22KB)

氷河時代の市川の地形

 埋没谷の1つ、市川谷を上流に追ってゆくと2つに分かれて一方は国分谷へ、他方は大柏谷へと続いています。現在見られるこれら2つの谷は、埋没谷が作られた時代にはすでにあったのです。下流の方に追ってゆくと、東京湾の中にある大きな谷へとたどれます。2万年前には、陸地だった東京湾の中を流れる1本の川があったのです。この川は古東京川と名付けられています。河口は、富津岬や観音崎よりも南の、現在は水深約 100mの場所にありました。2万年前の市川は、海までの距離が長く、上流と下流の落差が大きい、川の上流部でした。

地盤沈下をきっかけにして

 旧行徳街道を行くと香取から相之川にかけて、道路がゆるやかに上下に波うっています。これは地表が埋没谷の上で、大きく凹んでいるために起こっています地盤沈下の調査をすることから、埋没地形についてわかってきました。

●主な参考文献

 ・市川市史 第1巻第1章地形の発達 (発行:市川市 1971年)
 ・市川市の環境 昭和54年版 第5章 地盤沈下の現況と対策 (発行:市川市 1979年)
   *上2点は中央図書館・行徳図書館などで閲覧できます。
 ・東京の自然史 /著・貝塚爽平 (発行:紀伊国屋書店 1976 年)

 


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街かど自然探訪



(sz456.gif、約2KB)

曽谷・七面大明神の池

 まわりを台地に囲まれた曽谷3丁目の谷奥に七面大名神の社があります。周囲はすっかり住宅地となっているこの社の裏手に、10m四方の小さな池がひっそりあります。池には汚水が流れ込むこともなく、僅かな澄んだ湧き水が池を潤しています。以前は池も大きく、周辺ではホタルや蛙を見ることもできたそうです。
 現在では少しの樹木や笹竹に回りを覆われ、滅多に干上がることもないこの小さな池は、きれいな飲み水を求める野鳥たちの貴重な水場になっているようです。







イラスト(sz457.gif、約2KB)

高石神・かつてキツネが暮らしていた

 博物館が行ったアンケート調査によると、大正時代くらいまで高石神付近にキツネが生息していたらしいことがわかっています。キツネは、タヌキと対で語られることの多い動物ですが、タヌキにくらべると格段に豊かな自然がなければ暮らしていけない動物です。今の町並みからはちょっと想像がつきません。
 高石神のキツネは、その後、京成電車が通るようになっていなくなってしまいました。もう、80年も昔のことです。

 

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むかしの市川



イラスト(sz458.gif、約9KB)

ミクリ

 じゅん菜池公園は、20年ほど前までは水田、放置田でした。その頃ここには多種類の水辺の植物が生えていました。
 放置田やその周辺には、ニオイタデ、オオケタデ(9月)などのタデ科の植物が目につき、他に背の高いマツカサススキ、大きな葉のクワイなどもありました。
 そんな放置田の一角にミクリが数株生えていました。ミクリの生えているのを見たのは初めてだったので、さっそく植物図鑑で調べてみました。池や小川に生えるミクリ科の多年草で、細長い葉を水面上に伸ばし、50cm〜1m位の高さになり、6〜8月にたくさんの小さな花が集まった栗のいがを思わせる球形の頭花をつける、とありました。10年ほど、夏になるとミクリを見に行きましたが、ほとんど毎年同じような数が生えていました。その後公園として整備されるのを機に、大町自然観察園に移植されました。

(博物館指導員 鎗田安之 記)

 

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わたしの観察ノート No.27



◆大町自然観察園一帯より−−−−−−
以上 金子謙一(自然博物館)
◆市川北高校付近より−−−−−−−−
以上 石井信義さん(菅野在住)

◆南大野より−−−−−−−−−−−−
梅崎良則さん(南大野在住)

◆柏井雑木林より−−−−−−−−−−
以上 柏井研究講座にて

◆里見公園一帯より−−−−−−−−−
以上 秋元久枝さん(国府台在住)
    ※黒い鳥は、お手紙にあった絵などから考えるとアマツバメと思われます。
根本貴久さん(菅野在住)

 

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