◆  市川自然博物館だより  ◆

10・11月号

「市川の大地」4

市川砂洲

市立市川自然博物館  1997年5月1日発行

特集記事 街かど自然探訪 むかしの市川 観察ノート

 



特集記事



「市川の大地」4  市川砂洲

 総武線の下り電車が江戸川を渡ると、市川の町です。北側の車窓から、住宅地の間に見える濃い緑はクロマツです。クロマツは西船橋駅付近まで点々と見られます。でも南側の車窓からは、クロマツは見られません。どうしてこのような違いがあるのか、低地の中の特徴的な地形について探ってゆきます。

クロマツの生えている所

 図1は、樹高約5m以上のクロマツについて、1989年に博物館で調査して作成した分布図です。図上で、●印はクロマツが生えていた位置を表し、密生していた所は塗りつぶされています。
 クロマツはおもに京成線に沿って、北西から南東に幅約 500m〜1km、長さ約4kmにわたって細長く分布しています。西端は市川2・3丁目の松戸街道東側付近、東端は高石神の高石神社付近です。北側は日出学園小学校と冨貴島小学校を結ぶ線、南側は国道14号線と総武線のほぼ中間を平行に走る線です。

クロマツ分布図(sz461.gif、約5KB)

市川市の地形(sz462.gif、約26KB) かまぼこ型の砂地の土地

 このクロマツの分布地域は、その周囲とどの様に違っているでしょうか。
 図2は、市内の標高10m以下の低地を2m間隔の等高線で表しています。図1と図2を照らし合わせてみると、クロマツの分布域は、ほぼ標高4mの等高線で囲まれた区域であることがわかります。この区域の外側は、標高2mの等高線の場所なので、クロマツの生えている地域は、周辺よりわずかに高いことがわかります。
 その様子を断面図で表したのが図3です。京成線菅野駅西側を通るほぼ北から南方向の断面で描いた地表の形です。水平方向に対して上下の方向を拡大して表現してあります。図3から、4mの等高線内は、北側と南側に斜面がある、上面が平らな土地であるのがわかります。そして図2からは、北西から南東方向に細長くひろがり標高はあまり変化していないことがわかります。つまり、この区域の全体の形を立体的に考えてみると、つぶれたかまぼこ型をした、周囲よりわずかに高い土地なのがわかります。
 次に土の様子を調べてみます。標高4〜5mの斜面の上の場所では、うす茶色をした砂が見られます。平田の諏訪神社や高石神の高石神社の境内などは、さらさらのきれいな砂地です。ところが斜面の下の低い場所では、土は黒っぽい泥に変わります。
 このようにこの区域は、市川市の低地の中でも地形や土質などに、他の場所とは少し違った特徴を持っています。そのためこの区域は、『市川砂洲』と名付けられ低地の地形の中でも区別されています。
 市川砂洲の中には、図3の平田緑地のように、部分的に他よりさらに3〜5m高い盛り上がりがいくつかあります。それらは、京成線市川真間駅の南側にある「地蔵山」のように、地元では「○○山」と呼ばれていたりします。これは砂洲の中にできた砂丘であると考えられます。
 では『市川砂洲』や砂丘は、どのようにしてでき、なぜ現在の場所に見られるのでしょうか。

市川砂洲断面図(sz463.gif、約7KB)


昔の市川(sz464.gif、約16KB)
市川砂洲ができるまで

 6,000年くらい前の縄文時代には、今の市川の低地は海の底でした。波の働きで岸辺の台地は削られ、削り取られた土砂は、水の流れに運ばれて、海底に堆積し、しだいに海を浅くしてゆきます。
 3,000 年ぐらい前になると、海面がだんだん下がってきました。昔の国分川や大柏川が海に出る河口付近では、水の流れが急に遅くなるため、運ばれてきた土砂は堆積しやすく、河口の沖合にあたる海底に浅瀬ができていきました。そして引き潮時には、海面上に現れるようになります。さらに海面が下がると、満潮時でも浅瀬は水に隠れないようになります。こうして砂洲ができてゆきます。砂洲の北側は静かな内海になり、土砂が更に堆積してゆきます。川は海への出口を塞がれ、砂洲に平行に西へと流れを変えました。砂洲の南側は東京湾に面し、波と海流の働きで堆積した土砂が再び削りとられてゆき、そのために北西−南東にまっすぐな海岸線ができました。砂洲の上、で風で土砂が吹き寄せられた場所は、周囲よりも小高い砂丘になりました。
 1,000 年ぐらい前になると、砂洲の周囲の海底もしだいに陸地になってゆきましたが、そこは砂洲よりも一段低い土地になりました。万葉の歌に『真間の入江』と歌われたように、砂洲の北側にはまだ水辺が残っていたようです。江戸時代の図絵にも継橋の絵が残っているので、市川砂洲の周囲は、沼沢地だった事がわかります。

砂洲の上に発達した市川の街

 昭和30年代まで、砂洲の南北両側は湿地で、水田に利用されていました。人家は水はけの良い砂洲の上に集中していました。江戸時代に開かれた千葉街道も、砂洲の上を通ています。
 現在、市川の市街地は密集した住宅に隠されて、地形の様子を知ることは難しくなっています。しかし、クロマツの分布などから、市川砂洲について知ることができます。

●参考文献
 *市川市史 第1巻第1章 地形の発達  (1971年 市川市発行)
 *市川の自然の記録 第1号    (1996年 市立市川自然博物館発行)

 


 最初へ戻る

 



街かど自然探訪



カット「トベラ」(sz465.gif、約5KB)

高浜町・工場緑化樹

 高浜町は、1966〜1969年に東京湾の浅瀬を埋め立てて造成した土地で、わずか17ヘクタールほどの地域です。工業地域のため、気軽に自然観察することはできませんが、事業所の周囲に植えられた緑化のための樹木を観察できます。
 緑化樹のひとつトベラは、温暖な地方の海岸近くに多く潮風に強い常緑の種類です。表面がツルツルした厚く大きな葉は、大気汚染にもいくぶん強いと言われていて、臨海埋立地域の人工的な環境に緑の風景をつくりだしています。


カット「街の風景」(sz466.gif、約11KB)


宝・水が見える中江川

 宝1丁目と2丁目の間に、中江川という川があります。上流側も下流側も上に蓋がされ暗渠になってしまいましたが、宝の区間だけは今のところ水が見える状態で残っています。
 古い地図を見ると、この川は昔からの川に由来していることがわかります。川は、水が見えてこそ川です。暗渠にされずに残っている中江川からは、田んぼや小川、小舟、魚、そういったものが主役だった時代の行徳が偲ばれます。

 


 最初へ戻る

 



むかしの市川



カット「水の流れ」(sz467.gif、約8KB)

台風と水の流れ

 昭和33年9月25日の台風は、市川市に大きな被害をもたらしました。当時八幡小学校に勤務しており、その夜は当直に当たっていました。風雨はだんだんと激しくなり、夜8時頃には電車も止まりました。帰れない人は八幡小に泊めることとなり、表の様子を見に出ました。校庭は一面水におおわれ、前の道路に出てみると、道路が川のようになっており、足首がもぐるくらいの水が、北側に向かって流れていました。そこで、流れがどうなっているのか確かめようと思い、南の方(京成八幡駅の方)へ行ってみると、水の量がだんだんと少なくなり、京成線の踏切を境にして流れが南北に分かれていました。それを見るまでは、海の方へ向かって少しずつ傾斜しているものとばかり思っていました。それがこの台風で真間川の周辺はところにより1m位の深さまで浸水したと聞き、平地でも2m近くの高低差があることに気づきました。

(博物館指導員 鎗田安之 記)

 

 最初へ戻る

 



私の観察ノート NO.28



◆大町自然観察園より−−−−−−−
以上 金子謙一(自然博物館)

◆柏井雑木林より−−−−−−−−−
   
柏井研究講座にて 

◆市川駅付近より−−−−−−−−
    
以上 安藤ゆきのさん(新田在住) 

 

 最初へ戻る

 

博物館たよりIndexへ戻る